昭和44年9月12日 朝の御理解 中村良一
御理解 第41節
「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」
わが心からも練り出す、いうなら、腕こまねいて、えー、考えると。ね。色々と工夫をすると。それも、私は、やっぱり大事だと思いますけれども、私は、一番大事なことは、本気で信心に取り組ませてもらう。本気で教えに取り組ませてもらう。その中から、あー、例えば、信心が信心を教えてくれる、仕事が仕事を教えてくれるというように、または、ふと思うといったような、そういうその、ふと思うというような、あー、こと。なかに、はー、神様が思わせて下さっているなといったような体験を、おー、頂きます。それが、絶えずその、心のなかで工夫をこらせておると言う、やはり精進がなされておかんとですね。そら、良い考えが浮かんでこないというか、その、はー、神様から、気付かして頂いたんだなあ、思わせて頂いたんだなあといったような事になって来ないようですね。ですから、楽を、楽をしながら考えるといったような事は、良い考えが浮かんでくるはずはない。例えば、寝ながらなんか考えておるという、なかなか、寝ながら考えておると、えー、良い考えが浮かんでくる事がありますね。自分ながら良い、だから、枕元に、便箋かなんかおいといて、それをいちいち書きとめたいごたる、えへっ、事を思いついたり、考える事がありますけれども、一旦、目が覚めて見てごらんなさい。そういうような思いは、本当につまらないものです。だから、寝ながらども考え付いたなんていうのは駄目。一生懸命に、例えば、働かせて頂きながらというか、修行さして頂きながら、精進さして頂きながら、んー、練らせて頂くもの。または、ふと心に思うものでないと、私はいけないように思うのです。例えば、詩なら詩を作る人達が、はー、ずーっと考えてから、その、いわば、作り出した詩といったようなものよりも、日頃、そういう歌の心というものが、の勉強されておって、そして、ふと心に浮かんでくるもの。ね。そういう詩でないと、よい詩は出来ないと聞いたことがあります。ね。一つの、それは、霊感です。インスピレーションです。ね。それをその、詩なら詩という事にですね。ずっとその、ね。詩詠みの人が、よい歌を作るためには、色々とその、やはり、工夫が、あー、また、勉強される。そういう精進がなされておる人の上にです、ね。ふと浮かんでくるもの。ふと心に感じるもの。ね。そこに、大発見があったり、えー、いわば、後の世、のちの世にまでも残るような、良い、例えば、詩なら詩といったようなものは出来るのだ。石川啄木の詩なんかを読んでおりますと、おー、もう、その生活がそこににじみ出ておる。ね、その生活の中から、あんな、人の心に、いー、響いていくようなものというかね、残るようなもの。つい口ずさみたいような良い詩が、やっぱり出来ておる。ね。机の前に座って、詩を作ろうと思うて、じーっと考えて作った詩じゃない。ね。生活の詩。ね。机上の空論ではない。信心もそうですね。やっぱり、信心が、そこになされて、精進されて、そこから、ふと感じさせて貰うもの。それが素晴らしい。それは、だから、一つその、言葉を変えると、いわゆる、それがあの、インスピレーションだからなんです。霊感なんです。えー、歌は世につれ、世は歌につれというようなことを申しますね。流行歌なんか。いわゆるあの、流行歌なんかを作る人の、その心にね、ふと、おー、気付かれる、思いつかれるその歌が、あー、世につれておる。まー、一つの、予言のようなものだと言う人があります。ね。確かにですね、えー、そう言うものを感じます。歌を作る人の頭の中に、いうならば、その天地の親神様の働きというものがですね、入っていくんですね。あの、東京大震災のあった前にはね、真っ黒けのけという歌が流行ったち言うです。ふっふふ、東京が、本当に真っ黒けになってしまった。スットントンちいう歌が流行った時分にはね、もう、あの歌が流行った以後はもう、それこそ、物価が、どんどん、どんどん、スットントンで上がったち。その後に、あの、おー、枯れススキが流行った。大変な不景気が、あの、なったち言うわけですね。俺は河原の枯れススキと言う、あの歌です。確かにその、歌は世につれである。そういうような歌がですね。例えばほんなら、その、詩詠みの人、または、歌を作る人の、おー、頭の、心の中にその、ま、あー、感じられるわけですね。それが、日頃に、その詩を作ることに精進しておる人の、普通の人の頭には、浮かんでこない。精進しない人の頭には浮かんでこない。その事を、一生懸命、例えば、良い詩を作ろうという事にです、ね。努めておる人の頭の中に、心の中に浮かんでくるものです。信心とてもそうです。本当に、よい信心をさしてもらいたい。本当に、神様に喜んで頂けるような信心をさしてもらいたい。そう言う願い。そういう思いを持ち続けておる人の心の上にです。良い信心のヒントが与えられると私は思うです。ね。いつも心を神様に向けておる。ね。私は、やはり、腕こまねいて考えると、まあ、場合によっては、それを練り出すという事になるでしょうけれどもね。常日頃が、練り出す姿勢であると言うところからです。ね。それに応えるように、良い思い、良い考えが浮かんでくる。はー、本当に、毎日のことなのに、どうしてここに気が付かなかっただろうかと言うような事。それが、おかげを頂くヒントになってまいります。
昨日、善導寺の原正一郎さんが、お参りになったときに、それで、このごろ身体が悪くて休んでおります。ご飯も食べられんようにあるわけですねえ。それで、昨日、お参りをして見えてから、ここでお届けをされますときに、私が頂きましたことは、あの、せんふりの陰干ししたものですね。せんふりを、この、白紙で、こう、丁度、お花を包むように、こうやって、白紙で巻いてある。それがこう、下げてあるところを頂くんです。ね。どんなにそれは、センブリが良い、まあ、万病の薬だと言うても、胃腸の薬だと言うても、ね。如何に、私共が、神様のご守護を、お守りを受けておると言うても、私は、こう、紙で包んであると言うのは、神様の、そういうお恵みと言うか、おかげの中に包まれておると言うことだと思った。ね。おかげの中にあると言うてもです。その、例えば、せんふりが、熱い、熱湯なら熱湯に注がれ、を注がれて、えー、そしてそれを頂かなければ、薬にはならない。胃腸は健全にはならにようにですね。私共がその、教えを頂いておると言うだけでは駄目です。神様のお守りを受けておるんだと言うだけでは駄目です。ね、それは、何かの形で、その凝視される。それが頂かれる、飲まれると言う、ね。そこから、(おかげが頂かれるん?)だと。ね。一生懸命の信心ができるとこう言うておるのです。ね。それは、お参りとか、御祈念という事に、せいが出ると言うことだけではなくて、何時も自分の心の中に、練り出すという姿勢がなからなければいけない。いわゆる、話を聞くだけが能ではない。いつも、良い信心が分かりたい。御神意を悟らして頂きたい。ね。そこから、自分の信心を一段と進めて、えー、行こうという願いが、たとえば、様々な共励会とか、ね。いわゆる、信心の練りあいという事にまでなってくるわけですけども、ね。ただ、共励会のときだけ、一つの問題を、ね。一つのテーマに、えー、それを、検討しあうということではなくて、常日頃が、そういう気持ちでおらなければいけない。ね。どういう信心をさして頂いたら、どういう信心をさして頂いたらと、と言うその、願いを持ち続けておらなければならない。そこに、仕事をさして頂きながら、ふと、分からして頂くこと。ふと、思い付かせて頂く事。ね。それは、案外、素晴らしい。いや、それは、場合には、霊感である場合が多い。インスピレーションである。絶対のものである。人間以外の知恵である。ね。それが、無関心である人の上に、そう言う素晴らしいことが、ふと考え付かれるという事はありえない。ね。
若先生が、学院に、まあ、在学中に、えー、お話をしておりますのが、あー、テ-プで送ってきた。それを、おー、伊万里の竹内先生が聞かれてですね。こらーもう、本当にいい話だから、若先生が、学院に在学中に話された話だと、と言うので、えー、それを、パンフレットにされて、いつか、大祭かなんかの時に、皆さんに配布したことがありますよね。勿論、あれは、まあ自分の、まあ、あの人の少年時代とでも申しましょうかね。時代に椛目で、聞いておったその、ご理解を覚えておったんでしょう。もう、私がお話をするとと同じ、えー、事を言うております。ある日、えー、お釈迦様のお弟子の中に、んー、大変、知恵の優れた、あー、お弟子さんがあった。その人が、何時もその、腕こまねいてその、それこそ、何か思案しておる。考えておる。それを、ある日その、お釈迦様が、あの、弟子を手元に呼んで、えー、なんならば、そんなにいつも、腕こまねいておらねばならんのか。何を考えておるのかと。言うてその、まあ、お尋ねになった。そうしてその、まあ、お尋ねになりながら、自分の懐から、ハンカチようのものを出されて、それを輪に結ばれた。ね。それを、おー、その、シャリオズッタというお弟子でしたかね。が、それを、解いて、渡すと、またそれをお釈迦様は結ばれた。ね。解いては結ばれ、解いては結ばれ、繰り返しとるうちに、(やはり、しだいいちといわれた?)シャリオッズのことですから、と、おー、悟らしていただいたと言うことである。ね。例えば、そこに一つの、結ばれた輪と言うものがあってもです。ね。あったでけでは、それを解くことはできない。それをやっぱり、手ずから、自分で、えー、それを、解くことに努めなければ、解くことができないように、ね。ただ、考え抜いておるだけではいけないんだと、お釈迦様が教えて下さる、その事を、本気で行じて見る以外にはないと、まあ、悟ったというのでございます。そんなお話が、あー、テープにしてありました。ね。もう、まさしくその通りです。お話を頂いて、はー、分からせていただいて、有難いお話であったと、ね。それも有難い。けれどもね、それを行じなかったら値打ちはない。話を聞くだけが能ではない。わが心からも錬り出せという事は、今日頂いたお話を考えてみる、と言うのではなくて、今日頂いたお話を練ってみる。ね。それは、今日頂いたお話を行に現しえ見ると言うことなんです。ね。そこから、お話の中身にあったものがです、言葉に、文章になかったものが生まれてくる。そこんところを、教祖様は、話を聞くだけが能ではないぞと。わが心からも錬り出せと仰ったんだというふうに思うのです。今日は、特に、私共が、ふと思うという事。ね。私共が、そう言う、本当の良い信心が分かりたい。本当の良い信心が分かりたいと、心にいつも、そういう願いを持って修行、いわば、教えに取り組ませていただく生活の中からです。ね。そこに、いうなら、大発見をすることが出来、または、悟らして頂くことが出来る。それも、ふと、心の中に、それを分からしてもらう。ね。ずーっと考え抜いて、えー、腕こまねいて考え抜いておるというのじゃなくて、ふと気付かせてもらう。その、ふとの中にです、ね。神の叡智とでも申しましょうかね。いわゆる、インスピレーションである。霊感、そう言う信心が、やはり、自分のものになる。ね。信心は、悟りだと言われております。だから、その、悟ろう、悟ろうと思うて、一生懸命、腕こまねいて、考え抜くといったようなものではない。または、寝ながら、楽をしながら考えるといったようなものではない。いかにも、良い考えが浮かんだようであっても、ね。それを目が覚めて、あくる日、見てみる、思うてみると、それはつまらん考えである事に気が付く。ね。いつも、自分の心のなかに願い続け、または、思い続けさせて貰う、ね。それも、おー、教えに取り組んで、その教えが、あー、生活の中に、にじみ出てくるようなおかげを頂いた時に、ね。ふと感じるもの。ね。それが、段々、本然としたものになってくる。その、一つの霊感といったようなものが、霊感がです。一つのおかげのヒントを指し示してくれるわけです。そう言うところをですね。私は、大事にしていき、そういうところを体験させていただくと、信心が、いよいよ、有難いものになって行くと思う。話を聞くばかりが能ではない。わが心からも練り出すがよい。ね。そういう、私は、願いを持っておると、ね。それこそ、夢の中にでも、信心の素晴らしいヒントを与えて下さることが出来ると。どんなに、素晴らしいヒントを与えてあるお話をいただいても、ね。それが、いわゆる、翻然としたものにならなければ駄目なんです。ね。ああ、今日の話は良かったと言うだけじゃいかんのです。本然としたものになる。ね。為には、私共が、そういう信心態度というものがです。教えに、いわゆる、教えが教えを教えてくれる。信心が信心を分からせて下さる。ね。一生懸命に、一つの仕事に熱中する人達が、段々、上達していくと言うのは、ね。そら勿論、熟練もさることながら、その仕事が仕事を教えてくれる。ね。それが、ふと気づかせて頂くのである。ふと分らせて頂く。今日は、わが心からも練り出すという事をですね。えー、自分でも練り出すという事は、あー、何時も、その事だけを考え抜いておるというのではなくてですね。そういう信心姿勢にならせて頂くと、神様が、ね。思いもかけない時に。思いもよらない事柄の中から、ね。ヒントを与えて下さるというのである。二代金光様、四神様は、ね。夢でも、あだやおろかに見るなと、流行り歌の文句のなかからでも、子供の泣き声のなかからでも、神がもの言うて聞かせると仰る。ね。霊感。そういう神様の働きは何時もあってるんですけども、私共は、そういう気持ち。夢でも、あだやおろかには見らんというような気持ちになっておらないとです。そういうヒントを与えて頂いておっても、ね。歌の文句のなかからでも、神の声を聞くことが出来ない。ね。神の声そのものが、いわゆる、霊感なんです。ね。わが心からも練り出すがよいと仰います。そういう意味合いで、一つ、練り出していかなければいけんと思うですね。どうぞ。